2025-04-05



写真を提供していただいた皆様、この場を借りて改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。




仕事の関係で知り合った方に、ご友人である「タクミ印刷有限会社」様を紹介していただき、お手紙をいただきました。
タクミ印刷有限会社様は陸前高田市に会社を構え「未来へ伝えたい陸前高田(写真集)」や「希望の一本松」クリアファイルの販売を行っております。

タクミ印刷株式会社様の詳細、写真集等のご購入はホームページ・ブログよりお願い致します。

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3月11日の当日、津波がすぐそこまで迫っていることを全然気づかず、地震でメチャメチャになっていた会社の片付けをしていました。
最後の方の消防の放送が、せっぱ詰まるものがあり、いつもと違う何かを感じました。
「もしかして・・・・」そこから逃げる事を決意し高台に向かいました。
高台に移動したところで、車が渋滞。立ち止まった直後に大津波が街を飲み込みました。その間3,4分。
「もしかして・・・・」と感じる事が出来なかったなら、私を含めスタッフもここにはいないと思います。
そのまま街にいた人たちは、犠牲になってしまいました。
会社は、跡形もなく、何トンもある印刷機も流され、20年以上撮りためていた写真、そしてデータもすべて流されてしまいました。
先が見えない状態の中、一ヶ月後、高台にある社長のリンゴ畑に小さなプレハブを建て、再スタート。マイナスからのスタート。
陸前高田の企業の大半が津波で流され、会社を立ち上げても仕事は少なく、名刺、封筒、などの仕事をしていました。
そうしている中、在りし日の陸前高田の写真を持っている人と巡り会い、写真を見ているうちに涙が出てきてしまいました。
そこから、写真集を作る事を決意。
いろいろな人たちに声をかけ、震災前の写真・震災当日の写真・直後の写真など写真を集め完成させました。
震災後のガレキの写真集・津波の写真集が多い中、ほっとする写真が多い写真集が出来上がり、地元の人たち、そして地元から離れ暮らしている陸前高田出身の方々から、もう見る事が出来ない写真を見る事ができた、残しておけると感謝の言葉をいっぱいいただきました。写真を見て涙を流しながら電話をしてきた人たちもいっぱいいました。

そして、被災地を訪問した瀬戸内寂聴さんが写真集にふれ、冒頭の詩に共感しNHKBSプレミアムで紹介しました。
青空説法の中で、地元の方に詩を読んでもらったシーンがありますが、周りの人たちが涙している中テレビを見ていた私も涙してしまいました。
社長の思いを綴ったものです。社長が作った詩で涙するとは思いませんでしたが、写真集を作っているときの素直な気持ちで作ったものです。
聞いていた人たちの気持ちでもあったのかも知れません。
まだまだ先が見えない状態ですが、一歩一歩少しずつ前に進んでいます。

現地へ行った方からのお手紙です。
テレビや雑誌で東北の惨状は何度も見てきました。しかし、その土地に行き、全てを五感で感じないと本当の惨状は見えてこないものなのかもしれません。
この複合災害を絶対に忘れてはいけないものだと改めて実感しました。

東日本大震災の被害にあった石巻市に行って来ました。
そして、ようやく生き延びた方々とお会いしてきました。
車でまず石巻市内に入りました。道路は走れる状況になってはいましたが、両側の町は瓦礫が積み上げてあり、人はいませんし、犬も猫もいません。もちろん住むことはできません。心に残ったことは、とにかく、自然の力の脅威です。
次に、もっとひどい状況の女川町に行きました。高台に女川町民病院という大きな病院がありました。駐車場に立って町を見渡したら、涙が出てきました。津波に襲われ、町の半分以上の人が亡くなったのです。案内してくださった人がある方向を指差して言いました。「あそこに4階建ての銀行がありました。津波が来るというので、18人が屋上に逃げましたが、全員が亡くなってしまいました」

見渡す限り瓦礫、鉄骨はぐちゃぐちゃです。まだ9000人を超える人が見つかっていませんが、もはや遺体では判別できませんから遺族には背中しか見せず、DNA鑑定で調べたりしているそうです。

基本的に、私は、毎日、ボランティア作業をさせていただきました。4月、6月、8月といってきましたが、行くたびに印象が変っていきます。
また、住む方の変化も様々です。4月は、何にも話せない状況。しかし、6月になると、口々に被災者は、自分の九死に一生体験を話し出したのです。

ある家では、18歳の息子が海の向こう側で、命を失った話を聞きました。車でお父さんの煙草を買いに行って、津波に飲まれたそうです。遺体は車の中で見つかりました。お父さんは「俺が頼まなきゃ良かった。俺が代わってやればよかった」とずっと悔やんでおられました。

ある人は、思い切ってそのとき孫と一緒にトラックの屋根に乗ったそうです。トラックが浮いて、その上で1昼夜を過ごし、自衛隊のヘリコプターに救助された。トラックの上で、たくさんの人たちがおぼれていたのを見たそうです。しかし助けてあげることができなかったと。

ある人は、津波のスピードは110キロもあったので、押し流されてしまった。アパートの駐車場まで流されて、車のガラスを蹴飛ばして割って、外に出ることができた。アパートにいたお兄さん2人が泳いで助けてくれたそうです。
しかし、実家に帰ったら、年老いた両親がお部屋で座ったまま亡くなられていた。子供も孫も助かったのは、「両親が身代わりになって助けてくれたんだ」とおっしゃいました。

私の父と、親交のあった、お寿司屋さんのご主人(石巻、渡波)は、90歳になるお母さんを最初は2階の押入れに入れ、1回目の津波で1階がだめになったので、今度は天井裏にお母さんを隠したそうです。お2人とも助かって、水がひいたあと、お母さんは「私は津波を見ていないからちっとも怖くなかった」とおっしゃったそうです。そんな方もおられた。ご主人は、子供達は、すぐに避難所に逃がしたそうです。ご夫婦は、お母さんが足が悪く歩けない状態で、でも、お母さんの命をということで、お二人は迷い無く家に残ったそうです

ある方はこうおっしゃいました。「家も流されて全財産を失って、今は命があるだけでありがたい。もう私には欲はありません。春夏秋冬で着るものがそれぞれ3枚あればけっこうです。避難所で若い人たちに世話を受けたり助けたてもらったりしたので、私は元気になったら人のためにお役に立ちたい、そういうことを思っています」。

避難所の皆さんが異口同音に口にされたことがあります。それは、「避難所の中で誰も物を奪い合ったり、我先にと人を押しのけるようなことはなかった。みんなが助け合って、秩序を守っていた」ということです。
「避難所でひとつのおにぎりやパンを2つ3つに分けてみんなで食べた。人の思いやりの温かさを感じた」と。
本当に水やタバコを取り合っていのちを落とした人もいるそうです。残念な話ですが、どんな生き方をするかを考えさせてもらいました。

こうした光景は、海外のメディアからも賞賛されましたことは、みんなが周知のことかと思います。1つは、日本人はこのような困難な状況においても、礼儀正しく秩序を守っている。2つ目に、日本人は弱音をはかない。不屈の心を持っている。3つ目に、若い人たちが率先して手助けをしている。
いろんな国々が、日本の大震災の様子を見て称えています。これが、東日本大震災から学ぶ出来事です。
作家の辻井喬さんも新聞で、避難所の中に日本人の本当の姿があると書かれていました。裸になった日本人の姿は、礼儀正しいのです。
被災者の方々は食べるものがなかったときに「みんなで分け合った1個のおにぎりが本当においしかったんですよ」とおっしゃっていた。

私たちは何の心配もなく、3度の食事をいただくことができます。もう一度、感謝して生きることを教えていただきました。またこの震災を通して賞賛された日本人礼儀正しさ辛抱強さという美徳、そういったことを胸に抱いて、これからも生活を送っていきたいと思います。
8月には街中の瓦礫が片付き、倒壊した家屋の躯体だけがきれいに残っているという状態でした。そんな中、4月も、6月も無かった映像として、雑草が生い茂っているということでした。
誰も住んでいないということがよくわかり、不気味に感じましたが、同時に、そこには“生”があることが、わかりました。
日に日に成長していることがわかりました。時間がたったこともわかりましたが、とにかく、前進していることがわかりました。
これからの、復興にも時間が必要なのは、よくわかります。しかし、誰の手で行うかということについては、雑草の譬えではないですが、若い、私達が立ち上がらないといけないということを感じました。もう、富国強兵をめざした人たちに任せておくことでなく、勿論、今の安定した生活には感謝しますが、この震災を通して感じた、絆、手を取り合うことを大切にして、人を大事にする、お互い様の世界、みんなが安心して暮らせる新しい世界を目標に前進していくことが、2万人を超える“いのち”を張ってくれた方々への供養かと思いますし、本当に意味のある“いのち”、出来事だったと思うからです。









































山元町

山元町

山元町

山元町

山元町

山元町




仙台

仙台

仙台

仙台

仙台

仙台


震災前と震災後の写真


奥に見える家は流されてきた家のようです。